黒田官兵衛

黒田官兵衛

人は殺すよりも使え・・・ 黒田官兵衛は戦国乱世にあって一風変わった男であった。
生涯50数度の合戦で一度も負けを知らなかった戦の天才だが、槍や刀で人を殺すのではなく、知力で敵を下す、それが官兵衛の真骨頂であった。

権謀術渦巻く戦国時代にあって巧みな弁舌と、軍略秀吉を支えた冷徹な軍師である。
幾度も裏切られ痛い目を見たが官兵衛は決して人を裏切らない正直者であった。
だから敵は彼の言葉を信じ、説得に応じたのである。

中国方面の軍事司令となったとき、播磨の武将たちを説得して回り、勧降工作で活躍していた。
秀吉が三木城攻略のおり、神吉城も落とさんとして、生石神社を陣所に貸与せよとの官兵衛の申し出に対し、兄の城を攻めるのに陣所には貸さぬ。と最後まで拒否した。
そのため、秀吉の怒りに触れ、神社は焼けうちにあった。今もその時の火の勢いで石が赤く焼けただれ、弾けているのが解る。
秀吉に焼かれ、戦利品として鐘楼は持ち去られ」、のち、関ヶ原の戦いに西軍石田光成の勇将、大谷刑部吉隆が陣鐘として使用した。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として、美濃国赤坂の安楽寺に寄付。
現に大垣市の指定文化財として保存され、鐘の表面に生石神社の銘が刻まれている。

現に生石神社の山頂から姫路城の天守が望め、播磨平野・播磨灘等、高砂市を一望出来る唯一の場所である。明石城でのろしを上げ、當神社で受け、のろしを上げ姫路城へと連絡網に使われていた。

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黒田官兵衛の言葉に、

『人に媚びず、富貴を望まず』

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一度決めたら絶対に心を揺るがさない播磨人の気質が伺えます。
神吉城主の奥方の末裔が奇しくも今、生石神社の禰宜として神社をお守りしている。
一族の墓は海を見下ろす小高い丘にある。

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by oushikojinja | 2013-03-05 07:28 | 生石神社について

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